大衆が性的マイノリティをテーマにした作品に触れる意義

 『彼らが本気で編むときは、』という映画が来年2月25日に公開される。

 

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 母親に家出をされた小学生の女の子が、桐谷健太演じる叔父の家を訪ねる。叔父の家には、生田斗真演じる恋人であるトランスジェンダーの女性がいた。お互いの距離に戸惑い、周囲の言葉で傷つきながらも3人は心を通わせていく……。

 

 というのが予告編に示されている内容だ。

 

 この映画についての初めての情報はとあるツイートで、「生田斗真がガチの性同一性障害の演技をしている」と書いてあった。公開が楽しみだ、とわたしは思った。

 

 しかし、TLには全くネガティブな意見があった。

 

 「見る」は「理解する」じゃない。どうしたってこの国は偏見だらけ。生田斗真目当ての好奇心で見に行く人がたくさんいると思うと不愉快

 

 言葉に詰まるくらいの衝撃だった。自分は楽観的すぎて現実を見えていないのではないかと自省したほどだ。

 

 この世界は確かに偏見や差別だらけだ。しかし、それらは全て誤った知識や上の世代から植え付けられたなにかのせいだ。

 

 つまり、「まっさらな人間」というものが原初にあったはずだ。わたしは性善説を信じている。意図的な差別主義者も、みな正しい知識を与えられなかった人だ。

 

(例えば近頃話題に上った「腐女子ホモフォビア」もこれに当たる。男性同士の恋愛を消費する立場にあるはずの腐女子が同性愛差別的な発言をしている、という問題だ。同じことは「百合」を好む男性でも起こっている。本人たちがその発言の問題性に気づいていないのは無意識のうちに植え付けられた固定観念のせいにあると思う。)

 

 では、なにが大事なのか。

 

 教育だ。

 

 教育が人を作る。

 

 現行の学校教育では性的マイノリティに対する記述はあまりにも少ないのは既知の事実である。正しく認識することすらできないまま、偏見まみれの外界(マスコミ、家庭、学校や職場など)に触れて、歪んだ価値観を押し付けられて、無意識にそれらを受け入れる。自ら知ろうともしない限り、間違った認識を抱えたまま生きる人間が量産される。

 

 じゃあ国が教科書を書き換えてくれるのを待とう、とはならない。いつになるかもわからない。

 

 ここで、「教科書代わり」になってくれるものがある。当事者たちの言葉、性的マイノリティを描く作品(小説、漫画、映画やドラマなどの大衆文化)がそれに当たり、これらは「教育」になり得るはずだ。

 

 世間の認識は変わってきている。ハリウッドに限った話かもしれないが、近年、作中のゲイは従来のステレオタイプを脱した。「実在するマイノリティの姿」を見せてくれるような作品が多く作られるようになった。

 

 そしてそういった作品がより多く、我々の見えるところに出てくるようになった気がする。「普通の作品」と一律に評価、宣伝されるようになったのかもしれない。

 

 「ステレオタイプを脱したゲイ」を初めて描いた『ブロークバック・マウンテン(2005)』はアカデミー賞で3タイトル獲得、4タイトルノミネートされた。

 

 『恋するリベラーチェ(2015)』では周知されている二枚目俳優を起用して、赤裸々なストーリーを見せた。

 

 そしてテーマは性自認まで広がり、実在した世界で初めて性別適合手術を受けた女性を描いた『リリーのすべて(2015)』が大いに成功したのはまだ記憶に新しい。

 

 こうした映画のように、性的マイノリティは彼らをメインテーマに据えていない作品にも、必ず姿を表すようになった。「一作品に一ゲイ」と言ってもいいのかもしれない。

 

 そしてこの2,3年で認知が広まった『ブロマンス』という言葉がある。シャーロック・ホームズを原作とした映画とドラマのヒットに後押され、一般向けの映画雑誌でもこのホモソーシャルな関係を宣伝する記事が書かれた。

 

 時代が動いている。世界のいろんなところでセクシャリティに対する認識が少しずつ正しい方へと向かっている。この日本でも良い方へと進んでいると信じている。多様性を認めるのが正義だとする風潮はもう確かに確立されている。

 

(「需要層が存在していて、金になるから」も大きな理由であるが、それがこうも派手に表へと出てこられるようになったのも社会が変わったからだと思う。)

 

 10年前だったら、20年前だったら、生田斗真のような俳優がトランスジェンダーの女性という役を受けただろうか。そもそもこの作品自体あり得なかったはずだ。

 

 「LGBT」という言葉をテレビで聞くことも多くなった。そして、渋谷区と世田谷区で「同性カップルを認める」条例が成立した。法的効力を持たず、さらに忌々しくも発行に費用がかかってしまうが、それでもこれを確かな前進だと認めるべきだ。

 

 わたしは性善説を信じている。

 

 世界をより良くしようと努力する人たちがいて、その力が確かに働いていて、世界はより良い方へと進んでいる、と信じたい。この目に見えない力強いムーブメントがわたしたちを約束の地へ連れて行ってくれる日が楽しみでワクワクが止まらない。

 

 そんな中で芸能人のセクシャリティについてのアウティングがあった。スポーツニッポンのあのモラルに欠いた悪意むき出しの記事を見ては性善説を疑わしく思ってしまうでしょう。大学までしっかり出たはずの記者を思うと、そもそも「教育の力」すら信じられなくなってしまうかもしれない。

 

 でもここで傷ついて立ち止まってはいけない。こんなことに阻まれてはならない。

 

 「見る」=「理解する」ではないが、「見る」の先に「理解する」があるのだ。

 

 『彼らが本気で編むときは、』という映画が日本で作られるようになったのだ。この映画を商業的に成功させなくてはいけない。

 

 興味本位でもなんでもいい、より多くの人がこのような作品を見てくれることにこそ意味がある。

 

 知らない人は知る機会がないのだ。社会で見えない存在にされている、たくさんのマイノリティと同じように、知ろうと思うきっかけを持つことすら難しいのが現状だ。

 

 かつてジェンダーとは関係のない場で「同性愛」というテーマについて、「LGBTとはなにか」から始まるような発表をしたことがある。

 

 「同性愛と聞いてあまり興味を持てなかったが、これからは関心を持って勉強してみたいと思う」という感想をもらった。

 

 ただの決まり文句にすぎないかもしれないが、わたしはこの時、伝える大切さを初めて実感した。

 

 『彼らが本気で編むときは、』のトレーラー中に出てきた「もう遊んじゃだめよ、一緒にいる人見たでしょ?普通じゃないの」というセリフはフィクションじゃない。これにドキッとしたし実際に経験したことある人だっているだろう。

 

 でも「今日までは生きづらかったかもしれないけど、明日も生きづらいとは限らない」。NHKの番組でそう語った性別適合手術を受けて、今は若い世代を支援する活動をしている彼女の言葉に、わたしの信じているものは間違ってはいないのだと勇気づけられた。

 

 選民思想に基づいた人間関係を築いているせいで、国民投票を今やれば日本でだって同性婚は認められるだろうと思っていた。しかしここは夫婦別姓でこんなにも揉められる国だった。

 

 我々の目的は全ての人を説得することではなく、今の爺婆が死んだ時の国民投票で勝つことだと思う、「あの人たち変だから遊んじゃいけません」と子どもに言う親になってしまう人を減らすことだと思う。

 

 小説や漫画を読んで、映画やドラマを見た今の若者がいつか本物の教科書を変えてくれる人になる。

 

 すべて理想論だ。しかし夢見ることをやめてしまえば前に進めないのも誰だってわかっているはずだ。

 

 

 参考

 「BL時代の男子学 21世紀のハリウッド映画に見るブロマンス」

  近代映画社 2014年 SCREEN新書

 「SCREEN」4月号、8月号、10月号

  近代映画社 2013年 雑誌